優先座席のことを真剣に考えてみたい

今日は病院に行っておそくなったのでお客様から休んでいいょと言っていただけました。
うれしいと思っちゃいけないけど正直うれしい!


余裕があるので、まじめな話をします。


正論を言うよ。


まず結論から言いますが、
電車がどんなにガラガラでも、優先座席には座るべきではありません。
可能な限り真剣に努力してください。


僕もそうしています。
足を骨折していて両足で立てない人間でも、高齢の方に席を譲っています。



電車の中は休む場所ではない、と考えるべきかもしれません。
たとえ優先座席しか空いていなくても、立っていられないほどの状況なのか、真剣に考えてください。


そのほうがきっと、楽しくなると思います。


骨折する以前の僕がどうだったのか、想定される疑問についても下で説明します。


まず、
「そこしか空いてなくて他に人がいなければ、優先座席でも座るよ」って、みんな考えてないかぃ?

だって誰にも文句言われなそうだもんね。


でも、こういうとき真剣に考える余地があるよね。

電車が次の駅に止まって、
高齢の方や身体の不自由な人の姿が自分の目に入ったときに、ほんとにひとこえかけられるかい?

あるいは、電車が混んできて、座っている位置から周りが見えなくなっていても、それでも「困っている人がいたら席を譲れるからOK」なんてほんとに言えるかい?

しかもそんな状況で、困っている人にまで届く大きさで声を出す勇気がほんとにあるかい?

優先座席で目を閉じて寝ないと誓えるかい?

内臓に疾病をもつ方を、間違いなくそれと見抜ける自信があるかい?

たとえば自分が無視した相手が、実はうちの会社のお客さんだった!なんてことに無視した後で気付いたとしたら「やべー」とか思わないかい?


この2〜3週間で僕が思うのは、多くの人がたぶんそんな脆弱極まりない根拠にもとづいて確実に誰かを見捨てていて、そのことに気付いていないし気付こうともしないということだ。

きみの幸福は、砂の城かもしれないょ?
誰かを踏み台にしても気づけない冷酷な人間かもしれなぃよ?


この2〜3週間で僕が目にしたのは、交通弱者を邪魔者のように見る人たち、気付いても声が出せないで自分に言い訳してしまった人たち、そもそも周りを見ていない人たち、そんなのばっかりだ。


公平を期して僕の話をすれば、
僕は骨折する前から、
優先座席でなくとも、どんなに自分が高熱でも徹夜続きでも、必ず正しいことをしてきた。

電車に乗るときはブラックブラックガムを噛んでいる。
(常に、なんだけどね)
電車の中でもPCで仕事してたぐらい寝たくなかった特殊な人間の言うことに過ぎないかもしれないけど、
ぼくは、正しいことをしてきた自分のことだけは誇りに思える。

だから骨折してる今も同じだ。
やはりあくまでも僕の見立てでしかないけれど、
「今なら座らなくてもがんばれそう」そして
「あの人はきっと立っていると大変だろう」と思ったら、
一切迷うことなんてない。


もちろんこんなのは僕の考えであって
誰かに押しつけられる価値観ではないけれど、
<想像力>が大切だというひどく緩やかな提案です。

あと<勇気>とか。

勇気は、別に物語のなかだけで問われるモノではありませんょ。

愛情は、別に恋人や家族、友人ためだけのものではありませんょ。


んで、これら全部は電車のなかの話、優先座席の話、交通の話だけではありませんょ。
ねー。


幸いにして僕のおともだち・お知り合いは、
僕なんかと仲良くしてくれるぐらいほんとにぃぃ人たちばっっかだけど、
こういう話を、もっとみんなでしていけるような世界であってほしいです。
ほんとはこんな話をする必要がないのがいちばんだけど。

「自分を曲げずに人を優先する」社会であってほしいです。

だってそのほうが、楽しいことが今より増えると思います。