Fw:優先座席のことを真剣に考えてみたい

前回の日記が、エントリ作成時にミスっていて最新の日記にコメントができなくなっていました。
(はてダのブログモード時のアスタリスク表記を記述し忘れていました)

ですので、前回の日記にコメントをいただいたのですが、別の日の日記のところに書かせてしまいました。失礼しました!

そこで、この新しいエントリで、いただいたコメントにお答える形で前回のエントリの内容を補完したいと思います。

理由は別に「釣り/釣られ」とかでは一切無く、ただ
1.自分として大切なことについて考えているつもりなので改めて書きたい
2.前回のエントリだけではどうも適切に伝わらないかったのだと感じた
3.別の日のコメント欄でレスをつけるのがあまり美しくない気がした
からです。

また、いただいたコメントを新しいエントリのネタにすること自体は僕の本意ではないので、もちろん個人攻撃がしたいとか、あげ足取りがしたいとか、ケンカがしたいとかいうことではありません。

この点あまりお気になさらないでいただければ幸いです。

さて、前回の日記
http://d.hatena.ne.jp/taichistereo/20070530
に対して、1さん という方からいただいたコメントは、

優先席以外では譲ることは想定しなくてよいということですか?席によって考えをコロコロ変えるのは変だと思います。譲ることに意味があるのであって優先座席が無い電車では常に座れないことになってしまいます。
優先座席は困っている人が居たら何歳であろうと、どこであろうと助けるという精神をもつきっかけだと考えるべきだと思います。

というものです。

僕の話の展開があまり美しくなかったりしたためだと思うので、おそらく 1さん と直接face to face でお話しできていたら、僕の基本的な考えはこの1さんの考え方と同じだとわかっていただけると思います。

つまり「困っている人が居たら何歳であろうと、どこであろうと助けるという精神」は僕も大切だと思っています。

優先座席の存在がそのように考えるきっかけになるというのはとっても良いことだと思いますし、まさにその通りだと思います。

でもそのうえでさらに僕が言いたいのは、ざっくばらんに言うと
そんなのは当たり前である
と言う考え方を前提として
それだけでは不十分である
ということです。

つまり、

優先席以外では譲ることは想定しなくてよいということですか?

というコメントをいただいたのは全く持って僕の考えていることと逆です。
やはりおそらく僕の説明が十分ではなかったのだと思います。

ですのでここで改めて説明したいと思います。


■普通の座席

まず、優先座席とそれ以外の座席についての区別についてです。

一般的な認識としてひとまず、

優先座席:困っている人がいたら席を譲る
それ以外:ふつうに座る

という素朴な考え方が可能だと思います。

では、優先座席以外の座席で“ふつうに”座るというのはどういうことかと言えば、
僕にとってもコメントをいただいた方にとっても
優先座席と同じように、困っている人がいたら席を譲る
ということだと思います。

ただ僕は、各個人の裁量として「席なんか譲んないよ」というポリシーも、それはそれでOKだとも考えています。

よく言われる「お年寄りだと思って席を譲ろうとしたら断られた」というケースなどに起因して「まぁ今回は譲らなくてもいいか」なんて考え方は、それはそれで仕方ないと思います。

正直なところ「席なんか譲んないよ」というポリシーなんて唾棄すべきものだと思わずには居られませんし、“仕方ないと思う”ということはつまり“しかたねぇ奴だ、つまんねぇ奴だ、尻の穴の小さい奴だ、勇気のない奴だ、器の小さい奴だ”と僕は感じてしまう、ということです。

が、そうは思えどやはり人の考え方であり行動なので「なんで譲れないのあなたは」などとは決して言えません。

そう言っていやいや席を譲ってもらったり、自分以外の誰かのために席を譲ってもらうようにしても、お互いあまり気持ちの良いことではありません。

それに、これは大事なことですが、僕自身も幼い頃から今に至るまで一度でも困っている人を見捨てなかったかと言えば、そう断言できる自信は僕にはありません。

たとえば学生の頃はそんなことを自発的にできませんでした。
それは僕の当時の性格によるところが大きかったと思うのですが、自発的な行動全般に対する勇気がなかったために電車の中で周りの人のことを考えたり出来ませんでした。

また社会人になってから1〜2年ほどは、「人よりも過酷な仕事に就いている」という、今考えれば言い訳にもならないようなひどい言い訳を心の中に抱いて、僕は自己中心的に考えるばかりで周りのことを考えていませんでした。

そういう自分だったからこそ、いま松葉杖をついて僕が電車に乗ったときに
・気付いていても席を譲れずにモゴモゴしてしまっている人
・そもそも優先座席に座っている人が全員寝ている
という状況をみると、
かつての自分の姿と重なり「仕方ねーなまったく(’・ω・)=3」と感じます。


■区分のシフト、底上げ

では次に、かつてそのように「仕方ない奴」だった僕が、自分自身の骨折という経験を通して、いかに考え方がシフトしたかという点です。

この点がおそらく、コメントしてくださった 1さん と僕との考え方が、現在において多少異なるところだとおもいます。

先にも書いてきたとおり、

電車の座席は

優先座席:困っている人がいたら席を譲る
それ以外:ふつうに座る

と素朴に考えることが出来、“ふつうに座る”とは各個人の裁量によって

1.何も考えずに座る
2.困っている人がいたら席を譲る

と(表面的には)大別できると思います。


ですが、自分が交通弱者になってようやく、
・優先座席に座っている人が全員ねている
とか
・優先座席に座っている人が全員お年寄り
とか
・ある程度車内が混雑していると、座席から乗車した交通弱者の姿が遮断されてまったく見えない
とか
・大きな声で「席を譲ってください」と周りに伝えても無視された
とか
・移動に疲れ果てて声も出せなかった
とか
・ようやく空いた座席に座ろうとしていたら、後から乗ってきた人が追い越して席に座った
とか
・疲れ果てて床に座らざるを得なかった
とかいう状況に直面し、その都度かるくショックを受けるという経験をしました。
(恥ずかしい話ですがこれまでに2度、車内で涙を流してしまいました。)

あるいはまた
・長い乗り換えを歩いてようやく電車に乗り込んだら女性専用車両で、車掌さんに頼んでも空いている優先座席にすら座らせてもらえなかった
とかいうこともありました。

こういった経験を通して、僕は電車に乗るたび、理想的な車内というものを想像してみていました。

どこにぶつけてよいのかわからない憤りを感じるたびに、どれほど多くの人が辛い思いをしてきていたのか、自分はどう行動してくればよかったのか、本当はどういう車内ならよかったのか、考えていました。


結果、僕の考え方は以前より少しシフトしました。


あくまで今後の自分の行動規範としてですが、

優先座席:困っている人がいたら席を譲る
それ以外:ふつうに座る

ではなく

優先座席:困っている人がいたら席を譲る
それ以外:困っている人がいたら席を譲る

でもなく、

優先座席:可能な限り座らない
それ以外:困っている人がいたら席を譲る

という風にしたいと考えるようになりました。



交通弱者にとっては優先座席が「いつ電車に乗ろうとしても空いているところ」であれば、肉体的にも心理的にもかなり負担が軽減できると考えています。
もちろんこれはあくまでもひとつの理想として。

これを自分だけのルールとしてではなく“社会のモラル”として期待してしまうのは、まさに“理想にすぎない”。

理想だから、自分という単位を超えて考えてしまうことに無理はあるのだけれど、社会的には

優先座席:いつも空いている席
それ以外:交通弱者にいつでも譲ることができる席

でのように考え方がシフトしていってほしいと願います。


■率直に言うと

ここまでの考え方をくだけた言い方に乱暴にまとめてしてしまえば、
いま席を譲れない奴は、この先自分が席譲ってもらえるなんて思うなよ
そういう覚悟しとけよ
という話になります。
(もちろん、昔の自分のことを棚に上げた考え方なので、これは大きな声で言うべきことではないとわかっています。。。)

年をとってからや、僕自身が身体が不自由になってしまってからこんなことを考えるようになったり、人に言い出しても「遅かったのだ」と思っています。

もっと早く、こういう考え方に論理的に到達すべきだったと後悔しています。
あるいはこの身で経験してみないと想像力が働かなかったという自分が恨めしいです。

やや甘い期待を込めながら、
たとえば10年前からこういうことにぼくが気付いていれば、僕でさえ気付くのだからきっと世の中全体がそうであっただろうなぁ
という反省してしまいます。

これはやはり飛躍した変な考え方だと自覚していますが、
割とリアリティをもって実感しています。


■個人的な今後について

自分がどういう状況でも、先にも書いたとおり、

・僕は優先座席はできるだけ座らないようにして、空けておくようにします。
・僕はどの座席座っていても、できるだけめざとく交通弱者に声をかけ、席を替わることを提案します。
また、
・それ以外の公共の場でも、困っている人に気付けば見て見ぬふりをしません。
・困っているか困っていないかある程度判断できるぐらいには、周囲の他者の姿に興味を持ち続けるよう努力します。

幸い、完治するかどうかは別としてですが、僕の骨折はある程度もとの状態まで戻ると診断されています。

ですが、完治してもしなくても、またどんなに年をとっても、
いつも自分より大変な人の姿に気付き、行動できるようでありたいと思います。
精神的・肉体的に。
理想ではありますが、もっと努力したいです。


23ぐらいから、家族のことを真剣に考え始めました。

25ぐらいから、家族に具体的な行動を起こすことが出来るようになりました。

26ぐらいから、仕事のお客様方に真剣にぶつかっていけるようになりました。

いま27で、骨折を通していろんなことを考えました。

これからもっと、周りの人に幸せになってほしいし、自分自身も少しでいいから幸せになりたいです。