遠回りする涼宮ハルヒ と 逸脱の語彙

秒速 2センチほどのスピードで、この夏の真っ只中を駆け抜けている。
一見遅いようでいて、実はけっこう遠くまで行っちゃうよ、というところがポイントである。

足の遅いものは、より着実に遠く進む

ってわけだ。

さて、とりあえずお金の心配はなくなった。
やはりこれが数週間前までの僕にとっては一番大きい問題だったようだ。
行動を起こせば何らかの結果は得られる。
今は次のステージに取り組んでいる。

新しい状況の中で、新参者で有る僕にとってはすべてが新鮮で、まわりの誰もが尊敬に値する。自分のふがいなさを痛感すると同時に、その裏返しとして、まだ手付かずで目の前に広がっている世界の可能性に胸が高鳴る。

あっと言う間に、風景は一変したのだ。


人の言葉を借りて言うなら、

こんな私でも、扉をたたけば道は開かれるんだ、扉が開くんだってわかった

というやつだ。
僕はこの言葉がとっても好きだ。

これはもちろん、呼びかけられるのを待っていても何も来ないだろう、というお決まりのフレーズを言外に含んでもいる。
結果的に言うならまさにそうだ。いつもそうだ。

自分を待つ、というのもひとつの手だと思う

とかつて言っていた人もいたが、今はやはり、自分の起こした行動に世界が応えてくれたような大げさな感覚に浸っていたいと思う。


熱病に舞い上がったかのようなこの感覚は、毎日の新鮮な驚きによって裏打ちされている。


僕には、

人は変わっていかないといけないよな

と言っていた友達と、

私は別に変わりたいとは思わない、そんな必要はないと思う

と言ってくれた友達がいる。


若かった僕にとってはほとんど決定的と言ってもいいほどの敗北感を引きずっていた頃の僕は、やっぱり人は変わらなきゃいけないと強く思い、変われることを願っていたけれど、結局ぼくは子供のころから何も変わってないと思う。

ただそれでも、何も変わってないと言い切れるほど何もかも同じではない。


じゃあ何なのか?と言えば、要するに論点が適切ではないのだ。

変わったとか変わってないとか、成長したとか学んだとか、そういう自分の一貫性のようなものについて検討するのは、人に話すときは伝わりやすいけれども自分自身にとってはあまり有益ではない。都合のよいストーリーに偽装しているに過ぎないのだから。

むしろここで求められている語り口と言うのは、もっと繊細なやりかたなのだ。

そして僕にとっての繊細なやり方というのは、“不思議を大切にする”ということだ。

有象無象に関わらず、不思議なものに出くわしたときの掛け値なしの驚き、
不思議なものを自分のもとへ手繰り寄せられたときの素直なよろこび、
そういう心情が毎日の生活を下支えしているのだと思う。

こういう心を動かされる経験というのは、人が「変わる」「変わらない」「成長する」「学ぶ」ということとは、似ているけれど、少し違う。

それは垂直的に連なって人格の形成に寄与するための<エピソード>や<イベント>なのではなくて、並列して散らばっている個々の<状況>だと言った方が正しいだろう。

何だって一本道なんかじゃないんだから「寄り道」なんてもともと存在しないんだ、と言ってもいいかもしれない。



ここで大きく話を迂回させて、「オタクという人たちは、遠回りする人たちだ」という、ちかごろ僕が考えていることについても検討してみよう。

ここではその論旨は要約して、

涼宮ハルヒにしろメイド喫茶にしろ、「何この遠回りw」というそこはかとない可笑しさが、例えば「俺たちヲタだよなw」というような げんしけん的な自己規定(自己肯定)に直結することで、トートロジーを形成している

と仮に考えてみれば、上記のとおり「寄り道(=遠回り)なんてもともと存在しない」ということになるのだから、「オタクは一義的には遠回りしているように観察されるが、それは実は遠回りではない」といった命題に収斂させることができるはずだ。


遠回りであって、遠回りでない?
人は変わるようで、変わらない?


これはおそらく、トートロジー(同義反復)の円環こそが、「変わる」のでも「変わらない」のでもない人のありようを示しているということなのではないだろうか。

そしてさらにこの問題は、トートロジーが描く「円環」と、遠回り/寄り道が直線から外れて描く「カーブ」という、二つの曲線の図像的な相似とも無関係ではあるまい。

もちろんいずれの図形にしても直感的な、イメージの話にすぎないものである。
しかしだからこそ、この二つの曲線は、私たちの(少なくとも僕の)生活に着想をもたらし得るだろう。


すなわち、人が「変わる」「変わらない」「成長する」「学ぶ」といった言葉で物語る際に想起する、垂直的な直線、一貫性のストーリーからの逸脱は、直線上からこぼれおちた個々の状況を回収するための建設的な迂回ではないか?ということだ。

垂直的に(バベルの塔のように?)未知なるフロンティアを侵食して自分のプロパティ(所有物・可処分権)を拡大するような振る舞いは、要するに近代的な「一貫性に重きを置く」パラノイアのような価値観であって、煎じ詰めればグローバル化した20世紀末の社会に帰結すると言える。

それよりももっと自分の身の回りからきっちり考えたいよね、というのが、まぁこの叙述が日記として書かれているゆえんである。


だから一貫性からの逸脱は逸脱ではなく、都合のよいサクセスストーリーからの迂回は迂回ではなく、もっとポジティブなものであると僕は考えたいわけだ。


しかし僕は、そして結構他の人もそうなのではないかと思うのだが、こういったそれなりに微妙な価値観について「遠回り」「寄り道」「逸脱」「迂回」「ドロップアウト」果ては「負け組」などといったネガティブな語彙しか持ち合わせていない。

「努力」「学習」「キャリア」など、直線をポジティブに描写する言葉ならばいくらでもあるというのに、ポジティブな曲線となると語彙が圧倒的に不足する。



そこで僕は仕方なく、というかひとつの望みのようなものを託して、
「世界、不思議発見
などと言わざるを得ないのである。


あるいはこれは、サッカープレイヤーが得点に向かって起こす行動と似ていると言えるかもしれない。最短距離で切り込んでいけばゴールに近いと言うわけではないという現代サッカーの基本的な特徴は、案外もっとも的を得た 人生のメタファーなのかもしれない。