Rule of humanity

日記に記しておきたいことは少なくない。
言い訳を吐き出して自分を納得させたいのか、
あるいはこれからの生活の可能性について書いて自分を安心させたいのか、
はたまた誰かと話したいのか。

ともかく自分の中を空っぽに保ちたいと思うのである。


実際、僕はひとつの転機に直面している。
4月からそうだ。
本当は去年の、いや一昨年の、そのまえの転機の続き?

梅雨が明けて夏がやってくるまで、遅々として状況は変わらなかったにも関わらず、この1〜2週間のいかれっぷりはどうだ。only one thing to say, 15分で世界は変わる。

頭の中を整理するのが大変で、というよりもこういった状況で何も整理できないことは明らかなので、混沌としたまま立ち止まらないようにのみしている。

無理やりに暗闇の中をペネトレイトしていくと大抵、小石につまづくとか犬を怒らせて噛まれたとかホームランボールがカミナリさんちの窓を割ったとか、自分の問題処理能力の低さを露呈してしまいがちだ。

でも今回に限って言えば、それもこれも「いい風吹いてる」と納得して消化できそうな気がしている。
「いい風」とは、俗に言う悲劇的ヒロインのもとにピュウと吹いている一種の小道具としての<風>のことで、ヒロインはその<風>の中で物語的に輝くというわけだ。


まどろっこしい言い方を避けて率直に言えば「逆境を楽しむ」とかなんとか、スポーツ選手かよ的な話になってなんだが不本意だが、つまり今の僕には現実ってものが一種のゲームのようなものであるということはまぁ確かではある。

「これはゲームじゃない、現実なんだ」とかなんとか言ってる方が実は的外れなシリアスであって、<覚悟>のようなものを体現するなら、ルールが支配するフィールドのほうが容易なのではないだろうか。

総和世界としての<現実>のように、ルールのようなものがありそうなのにそれが判然としない、なんだか手探りで失敗してはじめて反則を知るというような世界のほうが不安で不安で覚悟なんて出来たもんじゃない。

むしろ自分で舞台を設定して、そこそこ自分の理解できるより大きいぐらいのルールのなかで、不測の事態にも俯瞰して洞察できるようなパーティションを耕す方が<責任を全うできる>。


つまり自分の人生の、責任の所在についての検討である。

「世の中のサラリーマンてすごい」というところから始まって「けっきょく会社に守っていただいているのだな」と感じざるを得なくなって25歳を迎え、「もうどこの会社とも社員契約しない」と決断した26歳の誕生日に、論点はより明確になったということだ。

責任はすべてこの僕のところにしかない。

友人の言葉を借りるなら、

when once you decide something to do, try to make it.
Because you cannot have any excuse to make your own life.
Give it your best.
(自分の人生に言い訳は出来ない)

というやつだ。


いいこともわるいことも、みんな自分のもの。
会社の給料からさっぴかれたり、書類に記入して控除されたりしない。

そういう状況、フリーランスになってはじめて、多重的な世界のレイヤーにまた一枚あたらしく気付いたような気がする。人によっては「ステージ」という言い方をするかもしれない。

特に僕は
・コネない ・実力ない ・金ない
という馬鹿げた地点から新しいレイヤーに切れ目が入る形になったので、この変化は特に鮮烈に感じられる。

責任も自分のものなら、未来も僕のもの、という新鮮な気分がある。


また、フリーランスになった瞬間から、基本的には自分以外の人すべてが<お客さん>である。最近少しずつそんな風に感じるようになった(必ずしもそれを表現できているとは思わないが)。「みんなを幸せにする」なんてことが割と建前なしの本音になってきたりするんじゃないだろうか?

無駄に気位ばかり高い自分にしてみれば青天の霹靂だ。
自由であると同時に、自分の行動には十分配慮しなければならない。

オンとオフの違いも胡散霧消するのさ、と考えればこれも僕の望んでいたスタンスだ。むやみにスローライフを気取ったりやたらとビジネス(busy-ness)だったりしない風に生活できれば楽しいだろうな。


というか面白いよ今が!