クラスタリング/ありんこ

なんていうかその、もうこんなじかんなの!?



それはともかく、誰かさんが新しいスタートを切るとのことで、いやこりゃほんと良かったなぁというか、面白いなぁと思っております。



所詮本人ではない、他人のライフコースなわけだけれども、どこかでお互いのライフコースがクロスしてたわけね、友達だから。であればそれはその地点からの距離っていうものを、感じてしまうじゃない。僕はいまここにいるよ。んでそっちはどう?っていうことだよね。



でこれは水平方向に散見できるだけのパラレルなのか、っていったらそれはそうじゃないよね。なんかむしろ奥深さのような気がするんだよなぁ。何をもってZ軸とするのかはわかんないながらも、ひとのことはただ他人事ってわけじゃないよなぁ。



ここでまず気付かなければならないのは、僕もそれなりには寛容になっているのだな、ということだ。と同時に、僕は僕自身の臨界点のようなものを常に懐にしのばせ、手のなかで転がしながら、限界を感じたりそれを乗り越えたりしながら、ぶぅぶぅ言ったりワロタリしながら、結局何にも影響されていないということなんじゃないか。



なんだそれは。



良いように言えば、依存度が低まり、普通でいられているということなのかしら。



で結局この迂回した考察が、最初の話にどう帰結するのかといえば、たぶん「自分と他人を混同している」というあたりのことなんだろうね。



これもひとつの繊細さ、decentなempathyなんだろう。



そこでようやく演技は演技でなくなり、物語のようなものが始まるんだろう、と期待を込めながら考えてみたい。