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ヽ(`Д´)ノ 削除しました



すごいなぁーと思うのは、さいきん雑誌を扱い始めたamazon.co.jpでさっそく「AXIS」を買ったのだが、喫茶店でほどよくテンパってきているときにその本を眺めていると、スルスルと形になってきたということだ。やはりデザインというのは「○○っぽさ」というのを念頭に置くことでしか実現できない作業なのかなぁと思えてくる。



ここで、



・デザインに限らず、無から有を生み出すことはありえない



・特にデザインは、最適解を導き出す作業である



・あるいは、「センス」なるものを誇示することで目的は達されてしまいがち



・価値判断はデータベースの水準で行われる



といったことが脳裏をよぎる。





つまり、現在流通している既成の「らしさ」をいかに引き出すことができるか、プロジェクトに対する解(ソリューション)とすることができるか、その瞬発力こそがここで問われる<スキル>なのではないか。。。などと考えてしまう。





大抵の場合、人間よりもgoogleの方が物知りである、と言うことが出来る。また、人間にとって、書物にまさるテクストなどないだろう。「いかに処することが出来るか」ということが僕にとっての最も大切なことのように思える。情報を、速度を、感情を、etc。。。



たとえば、CDを再生するのはCDプレイヤーである。では、CDプレイヤーを操作するのは何者か?それは僕である。僕はCDプレイヤープレイヤーでござい、というわけだ。処されるものを処するもの、そしてさらにそれを処するのが僕である。



これこそが、偉大なる海賊が備えていた<包括的なサイバネティクス>のことなのかもしれない。



瞬発力とは、responsibilityである、とすれば、それは同時に、応答可能性、でもある。答えはなくとも、応えることはできる。呼びかけに応え、応答に期待して呼びかける。これがコミュニケーション、僕にとっての最も重い課題、コミュニケーションのことである。



responsibilityとは、<責任>のことでもある。



これは<呼びかけと応え>それが破綻したあとの、現在についての話だ。





痕跡から見えないものの存在を感じ取る、これは我々が陥りがちな、安易な発想のメソッドである。しかし痕跡は痕跡に過ぎない。事実は真相には内在しない、表層に外在するのみである。





外在する事実?



喜びも悲しみも幾年月・・・機械のように動作し続ける以上に、何の営為すら人間に許されてはいないと思う。絶望や諦めとしてではなく、希望を託して言うのだが、死ぬために生きている人間という動物は、機械のように反復しつづけることしかできない。そして人間は夢をみる。期待をする。企図する。世界をよりよくしたいと願う。そんなものの一切は幻想だ。何も始まってないし、何もかも終わってる。笑顔なんて何の価値もないし、悲嘆する情もゴミと同義だ。だからこれは現実でも虚構でもない。世界は、気の迷いの総体だ。だからどーでもいい。論じる余地さえない。悩み、憂い、心動かされる道理などない。世界なんてものはあってもなくても誰も一向に構わない。つまらなくもなく、ただただどーでもいい。それが生の営みだ。一切は気の迷いだ。<人生>などと名づけるほどの必然もない。



だからこれは、あそびでも仕事でもない。何物でもない。ここには希望も絶望もない。つまらなくも楽しくもない。



機械として生きるとはそういうことだ。



まやかしだとは知りながらも、こういったことを考えるのは、じつは喜びであったりする。



死ぬまで終わらない。普通ってのはそういうことだと、僕はおもう。



ゴミという言葉はいささか感情的過ぎるので、次のように言い換えてみよう。すべてはアホである、と。





寝る前だけど、お菓子が食べたい