■ヒューマン・ビヘイビア
電車男キタ―――(゜∀゜)―――― !!
とか、常に時代の二歩を後をゆく私です。
今頃アスキーアートへの抵抗がなくなってきてる。
ここ数週間みっちり、ネット中心にパソコンと向かっていると「みんなけっこうコミュニケーションがすき」というのが感覚的に納得できるような気がする。
1.
「電車男」「ネカマ大作戦」「バルケン」に見る、<ねらー>たちの交流
2.
ひみつの共有サーバーに参加させてもらったとき、私の書き込みに対しすばやいレスがいくつも返されたこと
3.
「mixi」における各人それぞれの振る舞い、見知らぬ者同士のコミュニティなど
4.
多くのブログがすごく充実していること
5.
浅草に呼ばれたこと
* * *
今日電車の中でWebDesigningを読んでいたらflvとCMSの特集があった。
CMS(Contents Manegement System)というのは、いわゆる「ブログ」の親概念のようなものだ。CMSの代表「xoops」を試してみたが、これは実に楽チンだ。まさに誰にでもポータルサイトが作れる。
会社でXHTML+CSS+PHP+mySQLのポータルを立ち上げようと思っていたところ、XOOPSがまさにこれと同じ仕様である。よそれならばと、構築中のデータを放棄してXOOPSの力借りちまおうかと思っていたら、xoopsインスコしてからapache向けであることに気づく。IISでも出来るようだがややこしいそうだ。とりあえずホストさんと相談か?
しかしxoopsは便利だ。さわりかけのMTもこんな感じなんだろうな。便利すぎ。。。プロとして食っていくにはもっともっと付加価値が必要であるらしい。。。
* * *
ひさしぶりにフットサルできそうなので、しあわせ。
* * *
「怒り」が自分を突き動かすエネルギーであることを思い出す。ただ、今の自分が昔と違うのは、感情の高まりは、明日への活力になるということを直感的に理解できるという点だ。
<階段式>の価値観について、ついに誤謬を発見。単純に「そんなにうまくいくわけねーだろ」というツッコミに、階段式の価値観では反論できないのだ。
やりたくないことをやらなくてはやりたいことをやれない、
ということだし、
やりたくないことが常にやりたくないことである、
と決め付けるのは独断だし、
やりたいことというのは実際にはない、
ということだ。
つまりやりたいとかやりたくないとかいう評価軸は、あんまり重要じゃないのだ。
自分の価値観の上にアグラをかきだすと、
それはプライドの砂城を導き出しやすいらしい。
どんな状況も自分の気持ち次第。とかなんとか言いながら、経験値を重ねて、経験則を獲得していくうちに、悲しむべきことは悲しむに値しなくなっていって、そういう人が強い人間と呼ばれるのだろう。
でもこれは別に人間についての話じゃないと思うんだ。単なる社会的動物の話であって、こういう動物のことを「人間」とかなんとか肯定的な存在として捕らえること自体、幻想だ。こんなのは単にプログラムにアサインされたビヘイビアでしかない。イベントのメッセージをハンドラが受け取って、それがアルゴリズムとして集積されて、オブジェクトが再利用されて、
APIをコールしてネットワークを形成する、そういう類の話なのではないか。
自分に即して言えば、別に私が本気で悩むに値する問題なんて特にないと思ったのだ。問題は解かれるためにあるのだ、と思うと気が楽になる。解かれにくい問題とうのは問題としてふさわしくないのだ。多くの場合、問題と格闘するよりも問題の真正性と向き合うことの方がむずかしい。そういうのは焦らずほっとけばいい。時間が解決する問題というのは案外多いのだ。
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うまく伝わるかわからないけれど、「みんな結構コミュニカブル」というのは、ヒューマンビヘイビアのレベルでの見方のような気がする。それを懐疑的に感じたのは、私がそれをヒューマンビーイングについての話だと誤解したからかもしれない。
ここで持ち出すべき言葉は「エコノミー」でいいのだろうか?(閉じた空間のなかで)自給自足を始めるほどに貪欲な消費者、という表現は、ヒューマンビーイングの私としては「NG」な感じだったのだけど、ヒューマンビヘイビアの集積としての私としては、当然「アリ」なのだ。なにせ世界自体が、<宇宙船地球号>というくらいなのだから。
ごめんなさいちっとも具体的な話にならない。